ビートルズ代表曲ランキングTOP30!伝説的な名曲を紹介!
今回は年代問わず全世界で伝説的な存在となっているビートルズについて紹介していきます。
目次
復習も兼ねてBeatles(ザ・ビートルズ)とは?
今回はバンドの解散から50年以上の歳月が経過してもなお、世界中で愛されているビートルズおよびバンドの代表曲についてご紹介していきます。
ビートルズがロックに与えた影響ははかり知れないほど大きく、ロックを芸術的な域にまで高めたサウンドは、クラシックにおけるモーツアルトに匹敵するという批評家もいます。
ビートルズの名前を知らなくても、彼らの名曲を耳にしたとたんどこかで聞いたことがあるように思えるのは、それだけ彼らの曲が時と場所を超えて聞かれているからでしょう。
ここではそんなビートルズの魅力が伝わる曲をご紹介していきますので、今回の記事を読んで興味を持たれた方はぜひともビートルズの代表的な曲を一度聞いてみてください。
メンバーや伝説的なエピソードなどを紹介
ビートルズの音楽を巡る長い旅は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの出会いから始まります。1957年にクオリーメンとして演奏していたジョン・レノンをたまたま見たポール・マッカートニーが共通の友人に紹介されました。その場でポール・マッカートニーはジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」などを演奏しましたが、歌詞を正確に覚えていることに感銘を受けたジョン・レノンはポール・マッカートニーをバンドに誘い、その翌日にバンドに参加する旨をジョン・レノンに返答しました。
1958年にはポール・マッカートニーの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受けることにしました。当初は15歳という若さに難色を示したジョン・レノンでしたが、難易度の高かった曲を完璧に弾きこなしたことや、2人よりも多くのコードを知っていたことからジョン・レノンに認められバンドに参加しました。
1960年にはジョン・レノンが友人のスチュアート・サトクリフをベーシストとして誘い、この2人によってバンド名の「ビートルズ」が初めて世に出ました。(当時はバンド名がロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ)
この時期はメンバーの入れ替わりもあり、またドイツのハンブルグでの過酷なスケジュールの演奏などといった下積み時代でしたが、ハンブルグで演奏技術を磨いたおかげで、その後のリヴァプールのキャヴァーン・クラブにレギュラー出演を勝ち取ることができました。また、2度目のハンブルグ公演が終わった時点でスチュアート・サトクリフが脱退したため、ポール・マッカートニーがギターからベースに担当を替え、この時点で4人組のビートルズとなりました。(当時のドラマーはピート・ベスト)
やがてキャヴァーン・クラブでライブ活動を行っていたビートルズに転機がおとずれました。1962年にリヴァプールでレコード店「NEMS」を経営していたブライアン・エプスタインがキャヴァーン・クラブで演奏していたビートルズに興味を持ったことから、彼らのマネージャーとなりました。ブライアン・エプスタインがマネージャーになったことから、服装もそれまで革ジャンのロッカースタイルからスーツ姿に変わり、髪型もマッシュルームカットになるなどイメージががらりと変わりました。また、ブライアン・エプスタインがレコード会社に売り込みをかけたことが功を奏し、EMI傘下のパーロフォン・レーベルからプロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診され、オーディションにも合格しました。ですが、当時ドラマーだったピート・ベストがメンバーとしてふさわしくないということからバンドを解雇され、後任としてリンゴ・スターが加入したことで、”Fab Four”の愛称で呼ばれるオリジナルメンバーとなりました。
ビートルズは1962年に「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコードデビューし、ミュージック・ウィーク誌のトップ50では17位を記録しました。しかし、次のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がチャートの1位を達成すると、「シー・ラヴズ・ユー」や「抱きしめたい」などといったシングルが立て続けに1位を獲得しました。
1963年にはデビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」をリリースしましたが、チャートの1位を獲得すると、セカンドアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」がチャートの1位を獲得するまで、連続30週間もチャートの1位が続きました。
イギリスで火が付いた人気は次第にアメリカにも伝わり、1964年には初めてアメリカを訪れ、この頃にはビートルマニアと呼ばれるようになった熱狂的なファンの歓迎を受けました。またアメリカで「エド・サリヴァン・ショー」に2度出演しましたが、ビートルズが初出演した放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとも、7300万人が視聴したともいわれています。
また同年にはビートルズ自身がモデルとなったドキュメンタリータッチの映画「ハード・デイズ・ナイト」が公開されました。この映画でリンゴ・スターは俳優としての才能が認められ、その後いくつかの映画に出演するきっかけとなったほか、ジョージ・ハリスンはこの映画で後に妻となるパティ・ボイドとも出合っています。また、当時のビートルズの人気がどれだけ凄かったかというのは「ハード・デイズ・ナイト」を見るとよく分かります。
翌1965年には映画「ヘルプ!4人はアイドル」が公開され、前作同様に今回も映画の上映に合わせてサウンドトラックアルバム「ヘルプ!」がリリースされましたが、このアルバムに収録された曲「悲しみはぶっとばせ」は、アメリカ来日時に出合ったボブ・ディランンの影響を受けたジョン・レノンが書いた曲ともいわれています。
ここまででもバンドのキャリアとしては凄いビートルズでしたが、世間の評価はアーティストというよりはアイドルバンドとしてのイメージが強く、後の時代に人々がイメージするようなビートルズのサウンドはその萌芽は少しづつ見えてきたものの、全開とまではいきませんでした。
そんなビートルズが音楽の創造性と可能性を拡げるきっかけとなったアルバムが、1965年に発表された「ラバー・ソウル」および1966年に発表された「リボルバー」でした。「ラバー・ソウル」ではシタールを使用したサウンドやバロック音楽にシャンソンと、ロックンロールにとらわれない幅広い音楽を自分たちのサウンドに取り込みました。「リボルバー」では、「ラバー・ソウル」で試みられた実験的なサウンドをさらに追求しただけでなく、当時流行だったサイケデリックサウンドを大胆に取り入れたアルバムとしても知られています。このアルバムではジョージ・ハリスンが社会風刺ともいえる「タックスマン」を作曲したほか、バロックを取り入れたポール・マッカートニーの「エリナー・リグビー」や以降独特な歌詞を書いていくジョン・レノンの「アイム・オンリー・スリーピング」など、ロックの枠を超えた歌詞やサウンドを聞くことができます。また、この2枚のアルバム以降はライブでの演奏が難しいといわれたことや、ライブ会場での喧騒にうんざりしたメンバーは、1966年のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを最後にコンサートを行わない宣言をしました。日本では唯一の来日公演を1966年に武道館で行いましたが、厳重な警備体制と観客は座ったままの状態でライブを見ないといけないという、今からでは想像もつかないような厳粛な雰囲気の下で行われました。
スタジオでのアルバム制作がメイン活動となったビートルズですが、彼らの最高傑作ともロック史に残る名盤と呼ばれたのが1967年にリリースされた「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」です。ビートルズのメンバーが架空のバンドとしてショーを行うというコンセプトの下に作られたアルバムは、アルバムのデザインも含めて画期的な内容のアルバムでした。中でもアンコール曲としてアルバムのラストを飾る「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は、ロックとクラシックに当時流行だったアヴァンギャルドを融合させたロック史に残る名曲となりました。しかしこのアルバムを発表後、彼らのマネージャーだったブライアン・エプスタインが急死したことから、それまで強かったメンバー間の結束がほころび始めていきました。
1968年にはバンドのレーベルであるアップル・レコードをはじめとするアップル・コアを設立し、前作とは打って変わって白一色のシンプルな2枚組のアルバム「ザ・ビートルズ」をリリースしました。このアルバムはバンドとしてのビートルズというよりは、各メンバーのソロ作品をまとめたといったアルバムに仕上がっています。また、このアルバムでは後にジョン・レノンのパートナーとなるオノ・ヨーコのバック・ヴォーカルも聞くことができます。
ブライアン・エプスタインの死後、個々のメンバーがばらばらになるのを引き留めようとしたのがポール・マッカートニーでしたが、次第にポール・マッカートニーと他の3人のメンバー間で対立するようになり、決定的となったのがアップル・コアの財政が危機に陥ったために誰にマネジメントを任せるかということでした。ポール・マッカートニーは当時恋人だったリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推薦しましたが、他の3人のメンバーはローリング・ストーンズのマネジメントなどで知られたアラン・クレインを推薦し、多数決でアラン・クレインがマネジメントを行うことになりました。ポール・マッカートニーが脱退することでビートルズは事実上解散しましたが、このマネジメントを巡る対立が引き金になったともいわれています。
1969年には「アビイ・ロード」がリリースされ、ジャケットの写真のポール・マッカートニーが裸足だったことなどからポール死亡説が出たりしました。
1970年になるとポール・マッカートニーと他のメンバー3人との間の溝はますます深いものとなったことから、ポール・マッカートニーはビートルズの脱退を宣言後、ソロアルバム「マッカートニー」をリリースしました。実は、ポール・マッカートニーよりも先にジョン・レノンがバンドを抜けると宣言していたのですが、このことが原因で以後数年にわたって関係が悪化する事態となりました。
ポール・マッカートニーの脱退宣言後、ビートルズのラストアルバム「レット・イット・ビー」がリリースされましたが、この作品のプロデューサーはそれまでのジョージ・マーティンではなくフィル・スペクターでした。当時ポール・マッカートニーは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に加えられたオーケストラ・アレンジに強い不満を持つなど、フィル・スペクターの仕事を評価していなかったといわれています。「レット・イット・ビー」は2003年に「レット・イット・ビー…ネイキッド」としてリミックスされ、自分たちが当時やりたかったのはこんな音なのだとポール・マッカートニーはこのアルバムについて語っています。
解散後は何度も再結成が待望され、リンゴ・スターのソロアルバムでは他の3人が曲を提供したり、ジョージ・ハリスンがサタデーナイトライブに出演していたとき、バンドのメンバーが揃えば高額なギャラを出しますという番組からのメッセージに思わずジョン・レノンとポール・マッカートニーが行こうとしかけたなどなど、各メンバーのエピソードにも事欠くことのなかった70年代でしたが、1980年12月8日にジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺されるという悲劇が起こり、再結成の望みも夢と散ってしまいました。
ジョン・レノンが射殺された翌年の1981年にジョージ・ハリソンが追悼曲「過ぎ去りし日々」を発表しましたが、この曲ではドラムをリンゴ・スターが叩き、ポールマッカートニーのバンドであるウイングスがコーラスとして参加するなど、ジョン・レノンの死後はじめて他のメンバーが共演した作品となりました。
1995年にはザ・ビートルズ・アンソロジープロジェクトの一環として、ジョン・レノンが生前に残したデモ・テープを基に他のメンバーが演奏を加えることで、ビートルズの新曲「フリー・アズ・ア・バード」と「リアル・ラヴ」が発表されました。
しかし2001年にはジョージ・ハリソンが脳腫瘍と肺がんのため死去し、ビートルズの残されたメンバーはポールマッカートニーとリンゴ・スターの2人となり現在に至ります。
ビートルズ代表曲ランキングTOP30!
ここからはビートルズの代表曲を紹介ていきます。曲の紹介は10位まで行いそれ以降は表にてご確認ください。
順位 | タイトル | YouTube再生回数 | iTunesランキング | おすすめ |
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1位 | Hey Jude | 3億再生 | 2位 | ★★★★★ |
2位 | Let It Be | 1億再生 | 7位 | ★★★★★ |
3位 | Here Comes the Sun | 8412万再生 | 4位 | ★★★★ |
4位 | Yesterday | 5059万再生 | 1位 | ★★★★★ |
5位 | Twist and Shout | 4197万再生 | 8位 | ★★★★★ |
6位 | Help! | 1億再生 | 10位以下 | ★★★★★ |
7位 | Come Together | 9596万再生 | 5位 | ★★★ |
8位 | A Day In The Life | 1.3億再生 | 10位以下 | ★★★★ |
9位 | Penny Lane | 1.1億再生 | 10位以下 | ★★★ |
10位 | Something | 8362万再生 | 10位以下 | ★★★ |
11位 | Eleanor Rigby | 5978万再生 | 6位 | ★★★★ |
12位 | While My Guitar Gently Weeps | 6426万再生 | 10位 | ★★★ |
13位 | In My Life | 5030万再生 | 9位 | ★★★ |
14位 | I Want To Hold Your Hand | 8149万再生 | 10位以下 | ★★★★★ |
15位 | Yellow Submarine | 7924万再生 | 10位以下 | ★★★★★ |
16位 | Strawberry Fields Forever | 6470万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
17位 | Blackbird | 2707万再生 | 3位 | ★★★ |
18位 | Paperback Writer | 3277万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
19位 | A Hard Day’s Night | 2793万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
20位 | Michelle | 2238万再生 | 10位以下 | ★★★ |
21位 | Lucy In The Sky With Diamonds | 2515万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
22位 | Can’t Buy Me Love | 2401万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
23位 | All My Loving | 1828万再生 | 10位以下 | ★★★ |
24位 | Norwegian Wood | 1795万再生 | 10位以下 | ★★★ |
25位 | Lady Madonna | 1694万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
26位 | I Am The Walrus | 1603万再生 | 10位以下 | ★★★ |
27位 | Hey Bulldog | 1502万再生 | 10位以下 | ★★★ |
28位 | The Long And Winding Road/ | 1402万再生 | 10位以下 | ★★★★ |
29位 | Girl | 1334万再生 | 10位以下 | ★★★ |
30位 | Get Back | 1261万再生 | 10位以下 | ★★★ |
1位:Hey Jude
再生回数 | 3億再生 |
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AMランキング | 2位 |
おすすめ | ★★★★★ |
「ヘイ・ジュード」はビートルズが設立したアップル・レコードからの第1弾シングルとして1968年にリリースされました。「Hey Jude 落ち込まないで 悲しい歌だってより良いものにすることはできるさ」というポール・マッカートニーの歌声から始まるこの曲は、両親の離婚に心を痛めていたジョン・レノンの息子で当時5歳だったジュリアン・レノンを慰めるためにポール・マッカートニーが作った曲といわれています。
「ヘイ・ジュード」は落ち込んでいる人を慰めるためのラブソングといわれていますが、圧巻はラストの4本以上にもわたって同じリフレインが繰り返されるコーダです。ビデオクリップではラストの部分に入るや大勢のオーディエンスが現れ、ビートルズのメンバーと一緒に合唱するという場面を見ることができますが、延々と同じリフレインが繰り返されるにもかかわらず聞いていて飽きないというのはさすがビートルズといったところです。
なお、この「ヘイ・ジュード」ですが、後にチェコスロヴァキアで民主化運動が行われた時には共産党へのプロテストソングとして歌われていたり、1996年にレコーディング用楽譜類譜がロンドンでオークションに出された際に、ジュリアン・レノンが「ポール・マッカートニーが自分のために作ってくれた曲だから」という理由で2万5千ポンドで落札したというエピソードがあります。また、ポール・マッカートニーは1985年のライブエイドおよび2012年に開催されたロンドンオリンピックの開幕式でもこの曲を演奏しています。特に1985年のライブエイドでこの曲を演奏したことがきっかけで、以降ポール・マッカートニーがライブでビートルズの曲を取り上げるようになったともいわれています。
2位:Let It Be
再生回数 | 1億再生 |
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AMランキング | 7位 |
おすすめ | ★★★★★ |
「レット・イット・ビー」は1970年にシングルとしてリリースされましたが、チャートで1位を獲得した翌月にポール・マッカートニーがバンドを脱退したことから、この曲がビートルズの活動中にリリースされた最後の曲となりました。
ビートルズの名前は知らなくても、出だしのピアノのメロディーを聞いただけで聞いたことがある気がするこの曲は、バンドのメンバーとのぎくしゃくした関係にポール・マッカートニーが悩んでいた頃に、亡き母メアリー・マッカートニーが夢枕に現れた際に述べた「あるがままを あるがままに受け容れるのです」との囁きを元に作られたといわれています。またこの曲の歌詞の中に「Mother Mary」という一節がありますが、英文では聖母マリアを表すことから聖母マリアを題材にした曲ともいわれています。
「辛い時にマリア様がやってきて 知恵のある言葉を授けてくれたんだ なすがままにと」という歌詞で始まるこの曲は、「ヘイ・ジュード」同様にポール・マッカートニーのピアノの弾き語りとしても美しく、歌詞と共にどこか讃美歌や宗教歌をも思わせる厳粛な感じさえします。
また、フィル・スペクターの過剰とも思えるアレンジに不満だったポール・マッカートニーは、後にNaked Versionとしてこの曲をリマスターしましたが、この2つのヴァージョンを聞き比べてみても面白いのではないでしょうか。
3位:Here Comes the Sun
再生回数 | 8412万再生 |
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AMランキング | 4位 |
おすすめ | ★★★★ |
1969年にリリースされたアルバム「アビイ・ロード」に収録された曲で、ビートルズ時代のジョージ・ハリソンを代表する1曲でもあります。
当時アップルレコードのミーティングに疲れたジョージ・ハリソンが、ミーティングをキャンセルしエリック・クラプトンの家に遊びに行きました。その時に感じた春らしい日差しにインスパイアされてできた曲といわれています。
「ほら春の日差しがやってきたよ もう大丈夫だよ」とジョージ・ハリソンが歌うこの曲は、アコースティックギターの優しいメロディーがとても印象的な曲です。また、この曲では当時としては珍しくモーグ・シンセサイザーが使われています。
曇り空が多く、晴れることの少ないイギリスならではの曲ともいえますが、1969年に作られたということを考えると、当時の自身も含めたメンバーに言い聞かせているような曲とも聞くことができます。
4位:Yesterday
再生回数 | 5059万再生 |
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AMランキング | 1位 |
おすすめ | ★★★★★ |
1965年にリリースされたアルバム「ヘルプ!」に収録された曲で、初期のビートルズを代表する曲だけでなく、世界で最もカバーされた曲としてギネスにも認定されています。これだけ世界中に知られた曲を、23歳の誕生日目前に書いたというのも凄いの一言に尽きます。
当時のガールフレンドだったジェーン・アッシャーの家で暮らしていたポール・マッカートニーは、ある日夢の中で流れたメロディーを元に「イエスタディ」を作曲したといわれています。ポール・マッカートニーによれば、あまりにもすんなりと曲ができたために誰か別のミュージシャンの曲ではないかと他の人に聞かせたところ、誰もこのメロディーを知らないことから自分のオリジナル曲だと実感したそうです。ちなみにこの曲の初めのタイトルは、“Scrambled Egg”と呼ばれていました。
「どうして彼女は行かなければいけなかったのだろう?」というサビの歌詞を見ると、自分の元を黙って離れていった恋人のことについて歌った曲と解釈されていますが、ポール・マッカートニーによれば亡くなった母への思いを歌った曲と後に述べています。
クレジットはレノン=マッカートニーとなっていますが、実際はポール・マッカートニーが単独で書いた曲です。また、ロックンロールバンドが弦楽四重奏を取り入れたというのも画期的で、以後のビートルズの実験的な音楽の先駆ともいえる曲です。
5位:Twist and Shout
再生回数 | 4197万再生 |
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AMランキング | 8位 |
おすすめ | ★★★★★ |
1963年にリリースされたデビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」のラストを飾るナンバーで、ジョン・レノンのしわがれ声でのシャウトがとても印象的なロックンロールナンバーです。
もともとこの曲はフィル・メドレーとバート・ラッセルによって作られ、1961年にトップ・ノーツというグループがレコーディングしました。その後、1962年にアイズレー・ブラザーズがこの曲をカバーしましたが、ビートルズの演奏はアイズレー・ブラザーズによるカバー・バージョンをベースにしているといわれています。
当時、わずか10時間弱で10曲をレコーディングするという過酷なスケジュールに加えて、レコーディングの当日は、ジョン・レノンは風邪を引いていたことから牛乳を飲み、咳止めドロップを服用してレコーディングに臨んだそうです。
長時間のレコーディングから、最後はいつもの声ではなくザラザラとした声とジョン・レノンはこの曲について評してますが、この声によってロックンロールの粗削りな雰囲気がとても良く表現されています。またメンバーの演奏もさることながら、ビートルズのバックコーラスとしての魅力も初期の曲では堪能することができます。
6位:Help!
再生回数 | 1億再生 |
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AMランキング | 10位以下 |
おすすめ | ★★★★★ |
1965年にリリースされたアルバム「ヘルプ!」のオープニングナンバーであり、シングルとしてリリースされたこの曲は全英シングルチャートとBillboard Hot 100の両方で第1位を獲得しました。
加熱するビートルズの人気に自分を失いかけていたというジョン・レノンは、正に助けてほしいという気分からこの曲を作ったものの、誰も真剣に捉えてくれなかったと後に述べています。「だれかの助けが必要なんだ」と歌うジョン・レノンのストレートな心境が綴られた曲でもあり、この時期以降ジョン・レノンの歌詞は内省的なものが多くなってきます。
ジョン・レノンにとってもこの曲はビートルズの作品の中でも大切な曲のようで、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などと共に、ビートルズの中でのお気に入りの曲と述べています。また、この曲はメインボーカルであるジョン・レノンの声の後を追うように続いていくポール・マッカートニーとジョージ・ハリソンのバックボーカルも聞きどころの一つです。
7位:Come Together
再生回数 | 9596万再生 |
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AMランキング | 5位 |
おすすめ | ★★★ |
1969年にリリースされたアルバム「アビイ・ロード」のオープニングナンバーで、ビートルズの作品にしては珍しくファンキーなナンバーに仕上がっています。
歌詞はジョン・レノンらしい言葉遊びのシュールな内容ですが、メンバー4人のことについて書いたとも言われ、曲中に「1足す1足す1は3」という歌詞があったことから、ポール死亡説の根拠にもなったいわくつきの曲です。
実際のところこの曲はもともと、「ドラッグの教祖」とあだ名されていたティモシー・リアリーがアメリカ合衆国カリフォルニア州知事選挙に出馬を表明した際の応援ソングとして依頼されました。そのときのティモシー・リアリーの選挙でのスローガンが「Come Together – join the party」だったことから、この曲のタイトルとなったようです。
ティモシー・リアリーは選挙期間中にマリファナの不法所持で逮捕されたためにキャンペーン自体は中止となりましたが、その後ジョン・レノンが他のメンバーに聞かせた曲は、チャック・ベリーが1956年に発表した「ユー・キャント・キャッチ・ミー」とよく似たアップテンポな曲だったことから、ポール・マッカートニーがテンポを落としてアレンジも変えることを提案して、アルバムで聞くことのできるファンキーな曲になりました。
この曲もジョン・レノンお気に入りの曲とのことですが、この曲ではリンゴ・スターの変則的ともいえる凝ったドラミングも聞きどころの一つです。
8位:A Day In The Life
再生回数 | 1.3億再生 |
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AMランキング | 10位以下 |
おすすめ | ★★★★ |
1967年にリリースされたアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のラストを飾るナンバーであることから、アルバムでは架空のバンドのアンコール曲として位置づけられています。レノン=マッカートニーによる最高傑作の一つであるだけでなく、60年代にロックが一つの頂点を極めたことを象徴する曲でもあります。
もともとこの曲は、デイリーメール紙に書かれていたギネスの遺産を相続したタラ・ブラウンの死亡記事と、ランカシャー州ブラックバーンの通りに空いた4,000の穴を舗装し直すという記事にジョン・レノンが目を引き、その記事の内容を元に作られたといわれています。またこの曲の中で「今日は映画を観た 英国軍が戦争で勝利を収める話だ」というのは、当時ジョン・レノンが出演した映画「ジョン・レノンの 僕の戦争」のことのようです。
この曲は出だしのヴァースをジョン・レノンが、曲の中間部をポール・マッカートニーがそれぞれ創ったものの間の24小節を一番低い音から最高音までをオーケストラにによる即効の演奏で埋めるというロックと、クラシックに当時流行っていた前衛音楽を盛り込むといった画期的な曲であります。またサビの部分で聞くことのできる「I’d love to turn you on」というフレーズは麻薬で人に快楽を起こさせるという意味を表わすことから、BBCでこの曲は放送禁止となりました。この時期のビートルズの曲には「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」の頭文字を組み合わせるとLSDという言葉ができるというように、麻薬を連想させる曲が多いというのもこの時代の気分をよく表しています。なお、この曲のビデオクリップでは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーや当時の恋人だったマリアンヌ・ファイスフルにキース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズといった姿を見ることができます。また、この曲はポール・マッカートニーがジョン・レノンの「平和を我等に」とのメドレー形式でライブで演奏しており、2007年にウクライナのコンサートで演奏されたこの曲の映像をYouTubeで見ることができます。
9位:Penny Lane
再生回数 | 1.1億再生 |
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AMランキング | 10位以下 |
おすすめ | ★★★ |
1967年に「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と両A面シングルとしてリリースされ、アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」にも収録されています。もともとは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録する予定だったそうですが、レーベルが新しいシングルを要求したことからシングルとして発売されました。
「ペニー・レインの風景は今も僕の目や耳に残っている 郊外の青空の下で こうして座っていると当時の思い出が蘇るんだ」というサビの歌詞からも分かるように、この曲はリヴァプールにあるペニー・レインを題材にした曲です。歌詞を少し手伝ったというジョン・レノンによれば、子供時代の記憶を思いだしながら作った曲とのことで、ジョン・レノンが幼少期に遊びに行った孤児院「ストロベリー・フィールド」を題材にした「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と対をなす作品ともいえます。この曲のリリース後は、アビイ・ロードと並んでペニーレインおよびストロベリー・フィールドが、ビートルズマニアにとってのイギリスの観光地となりました。
曲はポール・マッカートニーらしい牧歌的な曲で、特にソロの部分で聞かれるデヴィッド・メイスンによるピッコロトランペットによるソロ演奏はこの曲を引き立てているといえます。
10位:Something
再生回数 | 8362万再生 |
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AMランキング | 10位以下 |
おすすめ | ★★★ |
1969年にリリースされたアルバム「アビイ・ロード」に収録された曲で、ビートルズ時代にジョージ・ハリソンがシングルのA面曲となった唯一の曲だけでなく、ビートルズの曲としては「イエスタディ」に次いで多くのミュージシャンによってカバーされました。また、ジョン・レノンはこの曲について「アビイ・ロードの中では一番の曲」と最大の賛辞を送っています。
「彼女の仕草の何かが 他の人に感じられないほど僕を惹きつける」という歌詞のこの曲は、ジョージ・ハリソンの当時の妻だったパティ・ボイドについて歌われたものといわれています。後にエリック・クラプトンの妻にもなるパティ・ボイドですが、エリック・クラプトンは「いとしのレイラ」で同じくパティ・ボイドのことを歌っており、ロック史に残るこの2曲が同じ女性のことを歌っているというのもなかなか興味深いものがあります。
この曲の最大の魅力は、ジョージ・ハリソンの歌う歌詞です。愛する人に惹かれる理由というのは、自分でもはっきりと説明できない何か(something)としか言いようがないというこの曲は、ラブソングの本質を最もよく表現したものといえるでしょう。この曲と「Here Comes the Sun」のおかげで、ジョージ・ハリソンはレノン=マッカートニーと肩を並べられるような曲を作ったと評価されました。また、この曲のプロモーションビデオには各メンバーがパートナーと共に写っているのですが、それぞれの自宅で撮られた映像をつなぎ合わせたものだそうです。なおジョージ・ハリソンの死後に行われた追悼コンサートでは、ポール・マッカートニーがウクレレを演奏してこの曲を歌っています。
その他:ビートルズについて
ここからはビートルズについて気になる情報をいくつか紹介していきます。
ビートルズのかっこいい曲といえばどの曲?
ビートルズの曲には色々なミュージシャンに触発されて書いた曲が多いのですが、その中でも異色なのはジミ・ヘンドリックスに影響を受けて書いたといわれる「ヘルター・スケルター」です。この曲は1968年にリリースされた2枚組のアルバム「ザ・ビートルズ」に収録された曲で、ポップグループだったビートルズが唯一演奏したハードロックともいわれています。ハードなギターにノイジーなサウンドは、聞いていてくらくらしそうな気分になります。曲のタイトルである「ヘルター・スケルター」とは見本市や遊園地に設置される螺旋式の大型すべり台のことですが、混乱やカオスといった意味もあり、文字通り曲を聞いているとすべり台でぐるぐると下降しているうちにカオスの世界へと導かれるような気分になります。
この曲は後にスージー&ザ・バンシーズ、モトリー・クルー、エアロスミス、U2、オアシスなどといったバンドがカバーしていることからも、この曲のハードなサウンドがイメージできるのではないでしょうか。
ビートルズの切ない曲(泣ける曲)といえばどの曲?
ビートルズは多くのバラードを作りましたが、中でもフランスのシャンソンに触発されて書かれたといわれている「ミッシェル」は切ない曲のひとつといえるのではないでしょうか。冒頭の歌詞が「Michelle, ma belle(ミッシェル、ぼくの美しい人)」というフランス語で始まり、サビの部分では「I love you」がストレートに表現されているこの曲は、冒頭の部分やサビの部分でのメランコリックなサウンドのギターも含めて、ビートルズのアレンジによる切ないシャンソン風の曲といえます。なお、当時のビートルズのライブで歓声を挙げていたのは女性でしたが、フランスではなぜか男性が野太い声で歓声をあげていたと、ポール・マッカートニーが後にアンソロジーで笑いながら語っています。
ビートルズのおすすめアルバムTOP3は?
以下ではおすすめのアルバムを3つ紹介しています。
1位:「アビー・ロード」
個々の曲でも「サムシング」や「カム・トゥゲザー」をはじめとする名曲ぞろいですが、圧巻は「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」から始まり「ジ・エンド」で文字通り終わる一連のメドレーでしょうか。この時期は既にメンバーはばらばらの状態だったと言われていますが、このメドレーを聞いているとビートルズが持っていた音楽のマジックを充分に堪能することができます。メドレー曲「キャリー・ザット・ウェイト」の中で「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」を再び聞かせるセンスなどはさすがの一言に尽きます。
2位:「ザ・ビートルズ」
1968年にリリースされた2枚組のアルバムです。ビートルズのアルバムというよりは、各メンバーのソロ作品としてのイメージが強いアルバムです。それまで強かったメンバー間のつながりというのが、各自のエゴなどで次第にばらばらになっていくというのがこのアルバムを聞いていると何となく分かるような気がします。
プロデューサーのジョージ・マーティンは1枚のアルバムにまとめるべきと言ったのを、各メンバーのリクエストで2枚組となったということもあり、それまでのアルバムと比べるとやや冗長な印象のするアルバムですが、ビートルズの多彩な側面を知るにはいいアルバムともいえます。
3位:「ハード・デイズ・ナイト」
1964年にリリースされたアルバムでメンバーが主演した映画「ハード・デイズ・ナイト」のサウンドトラックでもあります。
当時のビートルズの人気がどれだけ凄かったかというのはなかなか分かりにくいのですが、そうしたビートルズの人気を逆手にとって本人たちがビートルズを演じた映像は、当時の人気のほどを知る貴重なものともいえます。黄色い歓声で追いかけてくる女の子達から走って逃げるメンバーの姿というのは、後にビートルズのアニメでの代名詞にもなりました。
ドキュメンタリータッチの映画もなかなか面白いのですが、映画の中で使われた曲も「ハード・デイズ・ナイト」をはじめとしたいい曲が多いので、初期のビートルズを知るにはもってこいのアルバムだといえます。